日仏雑誌「LES VOIX」No.100号/掲載記事

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1940年代から50年代にかけて、欧米のファッション界を風靡した、フランス人の帽子デザイナー、クロード・サン=シールは、帽子について次のように語っている。

「帽子は、眼差しと真の共犯関係にある。」

彼女が、ここで言いたかったのは、帽子を被る際の、「眼差し」が果たす役割の重要性である。
この「共犯関係」というのは、帽子が、それを被っている人の眼差しに、一種独特の、優雅さをもたらし、また、その人の眼差しで、帽子にあらたなる個性が与えられることによって、成立していく類いのものである。
また、同時に、この「眼差し」というのを、他者の視線として解釈することも可能である。

そして、その場合には、他者の視線が注がれる立場としての、かつ見られるものとしての帽子という観点から、身なりにおける帽子の重要性、および「見るもの」と「見られるもの」による「共犯関係」ということが示唆されることになる。

こうした「帽子と眼差しの共犯関係」は20世紀の半ばまで続くことになる。
事歳、こうした時代においては、帽子はマナーという点においても大変重要な意味を持っていた。

こうした、帽子の重要性というのは、その当時、『シャポー・モデル』や『シャポード・パリ』(写真)などに代表される、数多くの帽子専門誌が出版されていたことからもうかがえる。
しかし、60年代後半を境に、そうした状況は一変してゆく。

60年代後半は「カジュアル」/「ユニセックス」という傾向がモード界を席巻した時代であり、
それは同時に、いままでの古い伝統に縛られた服装の否定をも意味していた。
こうした風潮は、礼装のための必需品でもあった帽子にも、当然、多大な打撃を与え、美容調髪技術の発達が、さらに、それに追打ちをかけていくことになる。

そして優雅なる眼差しも、「共犯関係」にある帽子とともに、こうした時代の波にのみこまれていった。

平野 大



イギリス「The HAT magazine」/掲載紙面

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フランス コサッド帽子フェスティバル 2002 掲載記事②

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2002年10月31日付/朝日新聞掲載記事


フランス コサッド帽子フェスティバル 2002 掲載記事①

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フランス「LA DEPECHE」/新聞掲載記事


○コンクール・インターナショナル・コサッド

(○△−まる・さんかく)で日出国がコサッドに君臨する。
モデル・ヴェルジュによって見事に被られた(○△)で、日本がコサッドで勝ちを収めた。

何時果てることもないサスペンスの後、デペッシュ・ミディのステージの上で、この日曜の午後に催された国際ファッション・ショーにおいて、第10回帽子フェスティバルの審判はついに下された。

《オリシス−エジプトの神:前回の優勝作品》の支配はここで幕を閉じ、
新たな帽子がこの帽子の国を統治するために招喚された。
作品名は前回のものより、ずっと平凡なものであったが、そのコンセプトは、それと同等
いやそれ以上に素晴らしいものであった。その名はズバリ(○△)。

この名は日本のクリエーター、平野紀子によって与えられたものであった。
プロフェッショナル部門においては、フィリップ・トレイシーを審査委員長とし、
彼を含めた15人で構成されている審査委員団は、長い長い討議の後、その審判をくだした。
というのは、60個もの帽子が世界各地から送られてきており、それらのレベルは予想を遙かに越えるものであり、特に、海外からの参加者の帽子が目立っていた。


アマチュア部門に於いては、プロフェッショナル部門に劣らず、個性豊かな42人のクリエーターが、このコンクールに挑戦した。ここでもやはり、強かったのは、外国勢である。
ベルギーのナタリー・エーヌの(私のトワール)が1位を勝ち得たのだから。

そして最後に、コサッド特有のカテゴリー、麦の部門では、モントイユのリラーヌ・マサロープの(燕)という喚起力のある名がつけられた帽子が他の作品より一歩抜きん出ていた。


第10回 フランス コサッド インターナショナル帽子コンクール
< プロフェッショナル部門 1位 >

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Noriko HIRANO

フランス コサッド帽子フェスティバル 2001 掲載記事

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「京都新聞」掲載記事
(2001/08/01付)
 
「京都新聞」掲載記事
(2001/07/07付)

フランス コサッド帽子フェスティバル 2000 掲載記事②

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「京都新聞」掲載記事
(2000/08/02付)

フランス コサッド帽子フェスティバル 2000 掲載記事①

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-La depeche du midi-Tarn et Garonne:le samedi 22 juillet-

「日本がお祭りにやってきた」

平野紀子さんは、彼の息子、大さんを伴いコサッド、セッフォンの帽子フェスティバルに参加していた。
彼らの参加の事情はここでお話しするに値するだろう。
数年前から平野氏の息子はモードの都・パリにいる。それについては何も驚くことはない。というのは、彼の親愛なるパパは以前パリに住んでいて、日本でもモードの仕事に従事している彼は、息子に彼のパリ熱をうつしたからだ。


京都の帽子研究家

大さんはフランスに住み、一方パパは京都で妻と共にプロ養成のための帽子研究所を開いている。
そしてこのフェスティバルに参加していたのが彼の妻、平野紀子さんである。
参加の理由は実に簡単で、このコサッドのフェスティバルの広告を見た息子が、彼らにそのことを伝えたため彼らはそれに参加することを決めた。
ちなみに、平野紀子さんの作品は審査員特別賞を獲得した。麦藁帽子とこの地方独特の製作の仕方が、二人を我らが町にひきつけた。というのは、日本ではこの地方のようには帽子を製作しないと思われるからだ。
彼らのコサッド滞在は4日間で、彼らはこの間コサッドを十分堪能しただろう。
フェスティバルの参加を終えてパリへの出発の際、フェスティバルの実行委員長のカポエンさんが彼らを駅まで送っていき、彼らにコサッドの記念として、トゥーロン工場でつくられたケルシー地方の特産物を麦藁帽子に詰めたプレゼントを贈った。
彼らはここで別れたが、近いうちにコサッドに再び戻ってくることを約束した。


コラム/レヴォア掲載記事

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○へそ

「へそで茶を沸かす」(おかしくてたまらないこと)、「へそが笑う」「へそが宿替えする」
「へそがくねる」とも言う。「へそくり」(倹約して内緒でため金)
「へそがくくるみ」(胴巻きなどに腹を結びつけること)「へそ黒」(気立ての悪いこと)
「へそ曲がり」(偏屈な人)「へそを固める」(基礎をしっかり固める)「へそを噛む」(後悔する)。
フランスにも「へそを眺める」という表現はあるが、後悔とは結びつかない。
へそを眺めるとは、自己中心的という意味である。
日本では、へその垢(あか)を取ると力が無くなるという言い伝えがある。
へその垢、またはへそのゴマという。子供の頃、
腹のへそを眺めそのゴマをほじくり、母親からゴマを取るとお腹が痛くなると叱られた。
たぶん、へそは過去の命の綱だから大事にしないといけないということだったのだろう。
へその緒を大事に桐箱に入れておいても、どこへしまったかいつのまにか忘れている。
へその緒を大事にとっておく風習は、すたれ気味である。へそをほぞとも言い、
「ほぞ」には男根の意味もある。
《パンツ、スカートはへそ下に!》
《シャツ、上着はへそ上に!》
透けたシースルーの重ね着から顔を出すへそ。
何の役にもたたないといわれていたへそ。この春夏は、オオモテ。




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○腕

腕に宿る力、腕力、腕に覚えがある、腕が鳴る
(腕をじっとしておけない)、腕に覚え(自信があること)、腕を
鳴らす(実力を示し名声を博する)。
腕がいい、腕利き、腕前、等は、職人の熟練度を言い表す時などに使われる。




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○パリの帽子職人たち

ココ・シャネルの始まりは帽子屋だった。
帽子職人は華やかなベルエポックの時代から1960年代まで花形
だったが、現在、フランスで帽子の木型を作っている職人も、帽子を
制作するシャプリエも数人になったと聞く。
LA FORME(75002 Paris) ロレンゾ・レ氏(木型職人)。
デザイナーやメゾンのクリエーターたちが描いたクロッキーから、
イメージどおりの帽子のスパートリー(うこぎ科の喬木を極細の平織にして片面に寒冷紗を
糊付けしたもの)を作るのは、奥さんのルシ。
それをもとにロレンゾ氏が木型を制作する。
ディオール97年春夏オートクチュールコレクション(ジョン・ガリアーノ)
では、ロレンゾ氏が木の帽子を制作した。
ECHAP'MODE CAHPEAUX(75001Paris) ジャンピエール・トリップ氏(シャプリエ)。
彼はフェルト帽体、夏帽体を型入れしたりブレードを専用のミシンで巻縫いして
帽子を作り出す。いくつものメゾンの依頼を精力的にこなしている。
また、積極的にスタージュ(見習い)を受け入れる。
帽子業界の明日を担う人材が育つことを望んでいるからだ。



掲載記事

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「京都新聞」掲載記事
(1991/11/28付)
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1991_media_03.jpg 「京都新聞」掲載記事
(1991/01/07付)

OPERA -緋色の夜を千年のかりそめ

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マリ・クレール 1991年5月号 掲載記事

1987年に北白川銀閣寺近くに設立されたクチュール&アトリエの場所を利用して Tokutaro HIRANO's expreme par la mode(平野徳太郎のモード表現・行為)の有機的な発想方法として、
オペラ OPERA-緋色の夜を千年のかりそめ-を上演しました。
舞台は一坪(二畳)の広さで、称して“一坪オペラ”。 
翻って思えば、ヨーロッパのオペラ劇場は雄大荘厳で、一つの“都市”のような機能さえ備えております。それに引き替え“一坪オペラ”とは何と微少なことでしょう。
しかし、これはお茶の世界にも共通する入れ子の世界、密度の高い空間に壺中天の如き拡がりを限りなくイメージさせてくれるかりそめの空間といえるのではないでしょうか。
確かにヨーロッパからもたらされたオペラではありますが、日本の浮世絵が印象派に影響を及ばしたように、やがては“一坪オペラが”がヨーロッパのオペラに刺激を与えることになるのではないかと密やかに夢想している次第です。

構成・演出 佐藤 信
出演 山口小夜子・新井 純
衣装 平野徳太郎