フランス コサッド帽子フェスティバル 2002 掲載記事②

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2002年10月31日付/朝日新聞掲載記事


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フランス コサッド帽子フェスティバル 2002 掲載記事①

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フランス「LA DEPECHE」/新聞掲載記事


○コンクール・インターナショナル・コサッド

(○△−まる・さんかく)で日出国がコサッドに君臨する。
モデル・ヴェルジュによって見事に被られた(○△)で、日本がコサッドで勝ちを収めた。

何時果てることもないサスペンスの後、デペッシュ・ミディのステージの上で、この日曜の午後に催された国際ファッション・ショーにおいて、第10回帽子フェスティバルの審判はついに下された。

《オリシス−エジプトの神:前回の優勝作品》の支配はここで幕を閉じ、
新たな帽子がこの帽子の国を統治するために招喚された。
作品名は前回のものより、ずっと平凡なものであったが、そのコンセプトは、それと同等
いやそれ以上に素晴らしいものであった。その名はズバリ(○△)。

この名は日本のクリエーター、平野紀子によって与えられたものであった。
プロフェッショナル部門においては、フィリップ・トレイシーを審査委員長とし、
彼を含めた15人で構成されている審査委員団は、長い長い討議の後、その審判をくだした。
というのは、60個もの帽子が世界各地から送られてきており、それらのレベルは予想を遙かに越えるものであり、特に、海外からの参加者の帽子が目立っていた。


アマチュア部門に於いては、プロフェッショナル部門に劣らず、個性豊かな42人のクリエーターが、このコンクールに挑戦した。ここでもやはり、強かったのは、外国勢である。
ベルギーのナタリー・エーヌの(私のトワール)が1位を勝ち得たのだから。

そして最後に、コサッド特有のカテゴリー、麦の部門では、モントイユのリラーヌ・マサロープの(燕)という喚起力のある名がつけられた帽子が他の作品より一歩抜きん出ていた。


第10回 フランス コサッド インターナショナル帽子コンクール
< プロフェッショナル部門 1位 >

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Noriko HIRANO

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フランス コサッド帽子フェスティバル 2001 掲載記事

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「京都新聞」掲載記事
(2001/08/01付)
 
「京都新聞」掲載記事
(2001/07/07付)

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フランス コサッド帽子フェスティバル 2000 掲載記事②

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「京都新聞」掲載記事
(2000/08/02付)

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フランス コサッド帽子フェスティバル 2000 掲載記事①

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-La depeche du midi-Tarn et Garonne:le samedi 22 juillet-

「日本がお祭りにやってきた」

平野紀子さんは、彼の息子、大さんを伴いコサッド、セッフォンの帽子フェスティバルに参加していた。
彼らの参加の事情はここでお話しするに値するだろう。
数年前から平野氏の息子はモードの都・パリにいる。それについては何も驚くことはない。というのは、彼の親愛なるパパは以前パリに住んでいて、日本でもモードの仕事に従事している彼は、息子に彼のパリ熱をうつしたからだ。


京都の帽子研究家

大さんはフランスに住み、一方パパは京都で妻と共にプロ養成のための帽子研究所を開いている。
そしてこのフェスティバルに参加していたのが彼の妻、平野紀子さんである。
参加の理由は実に簡単で、このコサッドのフェスティバルの広告を見た息子が、彼らにそのことを伝えたため彼らはそれに参加することを決めた。
ちなみに、平野紀子さんの作品は審査員特別賞を獲得した。麦藁帽子とこの地方独特の製作の仕方が、二人を我らが町にひきつけた。というのは、日本ではこの地方のようには帽子を製作しないと思われるからだ。
彼らのコサッド滞在は4日間で、彼らはこの間コサッドを十分堪能しただろう。
フェスティバルの参加を終えてパリへの出発の際、フェスティバルの実行委員長のカポエンさんが彼らを駅まで送っていき、彼らにコサッドの記念として、トゥーロン工場でつくられたケルシー地方の特産物を麦藁帽子に詰めたプレゼントを贈った。
彼らはここで別れたが、近いうちにコサッドに再び戻ってくることを約束した。


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